「動員ゲーム」としての就活にどう向き合うのか

昨今の就職活動ではなりふり構わない就活生の姿がよく散見されます。
例えば、内定をもらうために誇張した表現を使う、またウソをつくという(あくまでなりふり構わない一例として)という行動をとる。必ずしも全てが全てそうだというわけではもちろんありませんが、超就職氷河期を背景にして、少なからずそうした行動にリアリティを持ち始める学生がいるのは事実ではないでしょうか。


こうした状況を聞くと、上の年代の人ほど違和感や抵抗感を示す人が表れてくるのではないかと思います。そして自分自身、年齢こそ下の年代に属するのですが、そうした状況に早くから違和感を持っている一人です。(なぜ自分がこの年代なのにそうしたことを思うのかは下記へ)


しかしながら、一見(上の年代に属する人ほど)批判しがちなその就活生の態度ですが、現代の人々や社会の持つ想像力を考えた時、こうした状況は至極当然のことではないかと考えます。

社会に流通する物語を考えた時、その変遷はその時の社会と極めて強い相関関係を持ちます。それを前提にゼロ年代を考えてみた時それは評論家の宇野常寛さんが言うように「バトルロワイアル」とも言うべき状況が現代には横たわっています。90年代では、「エヴァンゲリオン」の碇シンジに代表されるように現状に対し「引きこもる」というような想像力がマジョリティでした。しかし、このキツイ現代ではそれでは生き残れない。「DEATH NOTE」や「野ブタ。をプロデュース」「LIAR GAME」(特に最後の作品は「ウソ」と「本音」がテーマの一つであり、より今の状況を想起しやすいと思います)に見るように、この社会を生き残るべく決断し、戦う想像力が散見されます。


そして、現代の就活の状況はこのような想像力と極めて強い相関関係を持つように思うのです。つまり、内定を勝ち取るために就活というバトルロワイヤルに投げ出された就活生は、以前のように引きこもって(90年代)はいられず生き残るために決断して(ゼロ年代)なりふり構わず戦わなければならないわけです。まさにこうしたことは「動員ゲーム」としての就活とでも言える状況です。
そしてその中では、現代の物語(「DEATH NOTE」などの決断主義的物語)に見るように就活生は(あくまで一例として)ウソをついてでも動員ゲームを生き抜くことにリアリティを感じているのではないでしょうか。そしてこれはゼロ年代に出現した新しい想像力であり、それゆえに上の年代の人々はこうした状況に違和感や抵抗を感じてしまう。そのように自分は考えます。



さて、ここで自分の目の前に横たわる問題として。自分はこうした状況にゼロ年代を中心に生きていながら抵抗感を抱いてしまっています。そしてそれは、幼少時代に父親の影響で触れた「巨人の星」「あしたのジョー「キャプテン」などが強い印象として自分の中にあるからだと自己分析します。
そう、自分はゼロ年代に生きていながら、いわば70年代のスポ根的想像力の方にリアリティを感じてしまっているわけです。「拳で語り合え!(あるいはボールとバットで)」のような想像力が、現在の「なりふり構わず」の状況に違和感を感じさせているのではと思います。


では、そんな70年代的な自分もゼロ年代的な就活生もどのようにこの動員ゲームとしての就活に向き合ったらいいのでしょうか。


極めて私的ですが、先日見た「LIAR GAME The Final Stage」にその答えが隠されているような気がしました。(ちなみに70年代作品に影響を受けているとしましたが、自分自身ゼロ年代の作品も大好きです!)
LIAR GAME」はウソと本音をテーマの一つとしながら、バトルロワイヤルの状況を生き残る作品であり、映画版ではそのテーマに一つの結論を打ち出しています。物語はバカ正直な性格を持つ神崎直と天才詐欺師の秋山深一が最後のライアーゲームに挑み、その途中ゲーム上に現れた敵「X(エックス)」に追い込まれつつも勝利するというもの。その過程で、その正直な性格が災いしゲーム上で不利な状況を生み出してしまいがちな神埼直が、その天才的なウソを放ちゲームを優位に進める秋山と協力しつつ、その正直者ゆえの特性を生かして勝利。秋山は「このゲーム、おれ一人では絶対に勝てなかった。だがおれには信頼できる仲間がいた。」と二人での勝利を強調します。


そして、映画の終わりに秋山と神崎の二人は「お前のバカ正直はなおるわけないだろう」とその素直さを認める秋山に対して神埼も「いいんじゃないでしょうか。人を幸せにする優しいウソならば」と互いに互いの良さを認め合います。


そう、この映画ではウソと本音に対して、決してどちらが良い悪いと振り切れるものではなく、ともに肯定されるべきものであるという回答が示されているのです。そして、ある種そうしたウソと本音のテーマからも直接的にバトルロワイヤル的現代の就活を描いてるといえるライアーゲームにおいてその回答が提示されたことは極めて示唆的です。70年代的な態度もゼロ年代的な態度も必ずしも良い悪いではない。月並みな言葉ですが、どちらの態度もともに肯定されるべきであり、ゆえにそれぞれがそれぞれの就活を歩めばいいんだよと。そんなことを感じさせられた気がします。



バトルロワイアル的な動員ゲームとしての就活に投げ出された自分たちは生き残るために、なりふり構わずウソも本音も入り乱れた態度をとるかもしれない。しかしながら、それは必ずしも良い悪いで捉えられるものではありません。ウソと本音の話で言うならば、本音だけというのは逆説的に疑わしいものですし、当然ウソばかりでは良い態度とはいえない。どちらも肯定しその両極端に振り切れない態度こそが必要なのではないかと、そう自分は考えます。何が正しいのか見えづらい世の中ですが、その都度それぞれの事象に対応していかなければならない。そんな時代のようです。

「売れてないのに子供いる芸人」に見るリアル

昨夜のアメトーーク3時間SP。レギュラーとなりつつある家電芸人、前回放送で話題を呼んだ運動神経悪い芸人と続く中で少しテイストの違うくくりが見られました。


売れてないのに子供いる芸人。

文字通り売れていないけれども子供がいるため、その経済的な苦労やそれゆえのあるあるネタを話す回。見ていて何かいつもと違う。違和感を感じる。その正体は何だろう…。



通常の放送であれば、日常の「プライベート」な話を「パブリック」なテレビという空間においてネタとして導入します。ここではあくまで話し手は「芸人」という属性=キャラクターを帯びているといえます。
しかしながら、今回の売れていないのに子供いる芸人では、その芸人というキャラクターをベースとしつつも、その中で「芸人であるお父さん」というプライベートにおける属性が表出していたように思いました。(特に終盤に近付くにつれそれが顕著に)

その前提では、日常の「プライベート」な話はネタではなくリアルとして導入される。それゆえに番組内で笑い(=ネタ)ではなく、感動(=リアル)が起きていたのではないかと思います。


おそらく、いつもと違う違和感の正体はこれかなぁ。今回のくくりでは「売れてないのに子供いる」という芸人ではなく、お父さんという属性が表出されるテーマであったため、そこでのトークはネタではなくリアルだったと。そんな感じがしました。



さて、そんな前提に立つとリアルな意味で今回出演された芸人さんにとっては重要な回でした。何せゴールデンですからね。

アメトーークのプロデューサーといえば加地倫三さん。番組内でも出演したことがあり、なかなかスマートな方。また、ロンドンハーツのプロデューサーでもあるバラエティ番組界の実力者。そんな加地さんが朝日新聞のTVダイアリーでこんなことを言っていました。


「出演者全員が爆笑を取ったとして、…出演者Aは5回使い、出演者Bは一回も使わなくすることも、編集するディレクター次第」
「それにより出演者の他の仕事に影響することもある」
「だからこそ、ディレクターには大きな責任がある。でもそこに気づかずに編集しているディレクターたちが山ほどいる」
「彼らの人生を背負っていると言っても過言ではない『編集』。本当に怖い」


このように芸人という仕事を左右する責任を自覚している加地さんならば、今回の売れてないのに子供いる芸人に対してはより慎重に編集をしたことは想像に難くない。
かつ、あわよくば彼らを救ってあげようと。そんな心も感じられます。加地さんが全て決められるわけではないでしょうが、このゴールデン枠での放送ということも加地さん含むテレビ朝日の愛であるように思います。だからこそ、最後画面に表示された「早く売れたらいいね。」は加地さんの心からの芸人に対するメッセージであるように感じられました。


今回のアメトーークはネタで埋め尽くされたテレビに、そんなリアルが表出されていた貴重な回だったような気がします。

「SASUKE」に「日本ガンバレ」は必要ない

今日は正月SP「SASUKE 2011」を見ていました。
子供のころから見ていて(第一回の記憶がある)大学生になった今でも毎回かなり楽しみに見ています。今回も完全制覇者は出ませんでしたが、必死に取り組む姿に「(失敗するのが怖く)もう見ていられない…」というくらいのめり込んでしまう。今回は一番好きな参加者であるオールスターズの竹田さんが出ていなかったので楽しさ半減でしたが…。奥山さん、リー・エンチといった好感の持てる参加者達が奮闘していたので最後まで楽しく見れました。

さて、そんなSASUKEですが、今回見ていてすごく気になった点がありました。


商業主義と「アメリカ勢vs日本勢」という構図 


今回のSASUKEではアメリカ人参加者の活躍が目立ちました。常連のオロスコに加え、脅威の身体能力を見せたキャンベルなど、結果的に4人ものアメリカ人参加者が3rdステージまで進出しました。(これは調べてないですが、おそらく過去最多では)
さて、そうした中で気になることが。1stステージでアメリカ人参加者がその活躍を見せ始めると、実況が次のような言葉をしきりに発し始めます。
「日本人の誇りを見せてくれ!」
「日本のSASUKEを守ってくれ!」…etc。
そう、番組の見せ方として「アメリカ勢vs日本勢」という構図を採用し、日本人参加者の活躍を煽って見せたのです。これまでも「オールスターズvs新世代」というような構図で番組を盛り上げていましたが、今回からは明確に「日本」という部分を強調し番組を作っていました。


こうした構図を採用し、番組を盛り上げる。背景にはもちろん商業主義があります。あらゆる番組コンテンツは視聴率獲得競争から逃れられない。「SASUKE」ももちろん例外ではありません。しかも今回は21時放映スタートで、例年に比べ2時間ほど短い尺。あきらかに無理な編集がこちらに伝わってきてしまうほどで、「SASUKE」もなかなか視聴率競争などにおいて厳しい立場にあるのかなと思わされてしまいます。
そうした中で採用された今回の構図。背景にはアメリカ国内での「SASUKE」の盛り上がりがあるように感じます。番組で採用される構図は基本的に大会ごとに活躍する選手たちをラベリングすることで成り立っています。「オールスターズ」「新世代」「アメリカ勢」…そうした名称を与え、対決などの構図をとらせることで番組を盛り上げています。
そんな中で今回明確に表れた「アメリカ勢」というラベル。アメリカ国内では「ニンジャウォーリアー」というTBSが「SASUKE」のフォーマットをアメリカのテレビ局に売ったことで始まった番組があり、その番組出身の参加者が今回旋風を巻き起こしていました。元々アメリカでは、フリーランニング(パルクール)などが盛んなようで(リーヴァイのようにプロの選手がいる)、そういった自らの身体を使い、魅せながらもコースを移動することを楽しむ文化のようなものが根付いているように思います。プロ以外にも趣味で楽しむ人も多く存在するようで(今回様々な職業の方々がいました)そういった背景の中「ニンジャウォーリアー」という場が与えられたことで盛り上がりを見せ(結構視聴率が高いらしい)、本家である「SASUKE」に乗りこんできたと。今大会以前にもリーヴァイやオロスコのような「ニンジャウォーリアー」出身の参加者はいましたが、今回はよりそのムーブメントの高まりが熟し、多くの参加者が活躍するというような結果になったのではと思います。それゆえ、ある意味「アメリカ勢」というラベル付けは当然の帰結だったように感じます。


見え透いた「日本ガンバレ」の物語


今回のような「日本ガンバレ」的な構成はテレビの世界ではよく見受けられ、非常に採用しやすい物語であるように感じます。例えば、五輪やW杯。現在日本のテレビでは競技そのものよりも日本人選手や日本チーム活躍を映し、応援するという構図を採用しています。採用する理由の一つは敷居の低さ。つまり、競技の知識などがなくとも「日本」という物語さえ与えておけば視聴者は(日本人であれば)そのコンテンツを享受することができるというわけです。

基本的には今回の「SASUKE」もそれと同じ論理ではないかと思います。「日本ガンバレ」という物語の導入は見る人の敷居を下げ、視聴率の回収へと繋げやすい。非常に便利な物語であるわけです。それゆえ、前述したアメリカの「SASUKE」(「ニンジャウォーリアー」)ムーブメントとの重なりもあり、その物語が採用されたのだと考えられます。


しかしながら、今回の「SASUKE」におけるその物語には欠点があったようです。それはあまりにもそれが見え透いていたことと、「日本ガンバレ」と「SASUKE」の親和性が高くなかったことです。実況があからさまに「日本ガンバレ」と物語を与える様子は(おそらくディレクターから指示があったのでしょう)あまりにもみえみえで、それゆえ逆に嫌悪感を抱くことになってしまいました。また「SASUKE」ではアメリカ勢は日本勢に対する「敵」ではなく、同じコースを攻略する「同志」です。相手との勝負が原則的なスポーツの世界では「日本ガンバレ」は効果的と言えますが、「SASUKE」では勝負が主たる要素ではなく、逆に長野がリーヴァイを激励するなど国を超えた同じコースに挑戦する仲間としての友情にグッときたりする。それゆえうまく機能しなかったようです。その証拠にツイッターやSNSのコミュニティでは過剰な「日本ガンバレ」に批判的な声が多く上がっていました。


おそらく次回もアメリカ人参加者のムーブメントがある以上、再び「アメリカ勢vs日本勢」の構図を描き、「日本ガンバレ」の物語を採用する可能性は高いといえます。しかし、前述の理由から視聴者がそれに対して嫌悪感を抱き、機能していない以上それは必ずどこかで破綻をきたすはずです。


「SASUKE」に「日本ガンバレ」は必要ない。
一人の「SASUKE」ファンとしてそうした安直な物語を導入することなく「SASUKE」本来の魅力を描き出してほしいと切に願います。

Mー1ひひょう

2010年M−1グランプリが終わった。優勝は笑い飯。9年連続で決勝に出続け最後に報われた形。いいネタだったし楽しかった。素直におめでとう!笑い飯
さて、今年も盛り上がりを見せたM−1。改めて録画した映像を見返してみるといくつか気になる点が出てきた。



ワイプの登場


今年のM−1からワイプが登場した。画面左下に審査員2人の様子がランダムに映し出される。審査員が画面に登場することで、「このネタは評価されている」という意味付けが与えられ、M−1という漫才コンテストとしての性質が強化されているように感じた。これが10年目の結論だろうか。M−1というコンテンツは「漫才の評価」という方向性へと強化されたようだ。なんだか見ているこちら側にプレッシャーが与えられているような気がした。「ここで笑っていいいのか?」審査員の神妙な表情がワイプで抜かれ、こちらもネタを評価、判断しているように気にさせられる。なんだかワイプが邪魔で仕方なかった。



ジャルジャルのメタ漫才


今年はいくつかこれまでに見られないようなスタイルの漫才が見られた。中でもジャルジャルのネタが印象的だった。なんと彼らは「これは漫才である」ということをネタの中で演じて見せたのだ。ツッコミとボケという漫才の要素をネタの中で解体して漫才を行う、いわば「漫才の漫才=メタ漫才」をしてみせたわけだ。メタ漫才という複雑化された表現を見事にネタとしてやりきったジャルジャルは面白かったし、自分自身かなり笑った。


しかし、ここで問題が生じた。そう「これは漫才なのか?」ということだ。
審査員の松本は採点の際、そのことに言及。中田カウスの点数は79点だった。
(もちろん彼らの意図は知りようがないが)おそらく審査員一同のポイントは「これは漫才か?」という所だったはず。そして、彼らは「これは漫才ではない」と判断したわけだ。


漫才を漫才にするメタ漫才は一度、漫才をネタ内で解体してしまっているため、その時点で漫才の否定が行われてしまったように思える。つまり、漫才の解体を行うことで「ツッコミとしてのキャラ」と「ボケとしてのキャラ」という設定付けがなされてしまったのだ。キャラを設定し、それを演じることで笑いをとる。すなわちそれはコントである。中田カウスの点数が今大会最も低かった要因がここにある。漫才の解体を行ったメタ漫才は、長年漫才に触れてきた彼の目には漫才として映らなかったのだ。



漫才というカテゴリー


このジャルジャルのネタはM−1という漫才コンテストの中では評価されなかった。しかし、ネタの完成度は見事だったし、会場ではかなりウケているように感じた。漫才の解体という斬新な発想を試みネタ化した彼らのセンスには本当に恐れ入るし、M−1でなければおそらく評価された、はず。


さて、ここにM−1という大会の本質的な問題を見た気がした。面白ければいいのではなく、漫才の枠の中でネタを行わなければならないのだ。しかし、今大会旋風を起こしたスリムクラブがそうだったように、その漫才というカテゴリーが揺らぎを見せている。一体どこまでが漫才か。漫才という言葉が象徴しているのは、今より遡った昔、センターマイクを挟んだ二人がしゃべくりその掛け合いで笑いとるというスタイルだろう。そのステレオタイプ的に刻まれた漫才像が(今大会で言えば、銀シャリやナイツがその漫才を体現していたといえる)審査員の頭を駆け巡っていたはず。

「これを漫才と言っていいのか。」ジャルジャル採点時の松本の発言に加え、島田紳助もまたそのことに言及していた。その線引きがどこにあるのか、漫才というカテゴリーをどう設定するのか。それを明確にしなければ漫才コンテストとしてのM−1は成り立たない。


そして、それを意図してかせずか10年間続いたM−1が終わった。ならば、次にM−1の後継として始まるコンテスト(「発展的解消」という話だけど、本当に始まるのかなぁ?)はそのことに自覚的な番組であってほしいと個人的に願う。そうでなければまた同じ問題系にぶつかってしまう。
最終的にスリムクラブに票を入れた紳助ならば、きっとそれができるはずだ。

今年を振り返る―サブカルを中心に―

もうすぐ2010年も終わり。
自分が今年どんなものに触れてきたのか振り返ってみる。


【今年一番の映画】

風の谷のナウシカ [DVD]

風の谷のナウシカ [DVD]

この年になってようやく非国民から脱出。マンガを全巻衝動買い。サントラも借りた。復刻版ガイドブックも買ってしまった。


【今年一番の小説】

オレンジデイズ

オレンジデイズ

ドラマの脚本を小説化した本。これ読んでから無性に大学生活を謳歌したくなったけど、現実とのギャップに撃沈。禁断の書。


【今年一番のマンガ】

おやすみプンプン 1 (ヤングサンデーコミックス)

おやすみプンプン 1 (ヤングサンデーコミックス)

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

ハチミツとクローバー 1 (クイーンズコミックス)

これだけは一番を決められない。ニ作品とも自分に影響を与え過ぎた。プンプンは本当にビビった。表現の限界。ハチクロは竹本くんに極限のシンパシー。遅まきながらハチクロ現象が降りました。


【今年一番の雑誌】

ダ・ヴィンチ 2010年 05月号 [雑誌]

ダ・ヴィンチ 2010年 05月号 [雑誌]

実はこの号で初めて浅野いにおを知った。インタビューを読んで衝撃。興奮して真夜中にマンガを買いに行ったことが懐かしい。


【今年一番聞いたアルバム】

Revolutionary

Revolutionary

わりと最近だね。ロッキンの映像を眺めていたらBlack Market Bluesの衝撃。そのままツタヤへ。でも一番聞いているのは光の雨が降る夜に。


【今年一番聞いた曲】
ハートを磨くっきゃない

Ipodの再生回数がトップだった。一週間くらい聞きっぱなしだったかも。懐かしさってやつはすごい。


【今年一番の新書】

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

これが全ての始まり。決定的評論。K藤先生、おかげさまでぼくはこんなんになりました。


【今年一番の参考書】

アーキテクチャの生態系

アーキテクチャの生態系

K野先生から借りた本。ネット、ウェブについての考え方が根本的に変わった。後に自ら購入して家に保存。


【今年一番のテレビ】
<新・週刊フジテレビ批評>

半年くらい前から毎週録画して見るように。面白いコンテンツが盛りだくさん。テレビの気概を感じる。次点は「みんなのKEIBA


【今年一番の評論家】
荻上チキ>

まだ若いのにあの活躍はすごい。司会の能力が半端じゃない。本も面白い。今年はずっと活動にアンテナを張ってた。


【今年一番の実況アナ】
青嶋達也

自分の中でサッカー実況アナから競馬実況アナへ。先日のフジ批評にて「競馬実況の裏側」で実況する青嶋は衝撃。一番好きな実況は08年の天皇賞(秋)


【今年一番開いたサイト】
mixi

今年の前半はずっと見てた。最近は存在感が落ちている(自分の中で)。後半はツイッターが来た。


こんなもんだろうか。アニメ、ゲーム、ドラマに関しては今年全く触れていないので割愛。全くテレビを見なくなった。テレビ離れの若者です。なんだかんだで今年は作品にあんまり触れていない。2011年はもっと色々なものに触れていかなきゃ。

朝日 論壇時評12月号

「論壇に関しては、今年もっとも印象に残った一字は間違いなく『漏』ではなかろうか。」と東浩紀が始める。今月のテーマは情報流出について。


ウィキリークスによる米外交公電流出の話題に関するいくつかの記事が紹介され、次のように述べる。
「流出された公電にはお粗末なものも含まれる。」(佐藤優)
「知られるべきではない世界もある。」(麻生幾)
「情報の安易な流出はむしろ情報統制の強化を招く。」(宮崎哲弥)
このような識者による視点が示され、流出に対して一歩引いた視点で見ていかなければいけないと感じさせられる。


そして、情報に関して公開すべきものと公開すべきではないもの。その線引きの難しさが指摘されている。技術的に公開非公開の境界が守られてきた時代とは異なり、現代ではその制約が取り払われている。これまでの常識では捉えることのできない事態が待ったなしに迫まっており、現時点で新聞を中心としたマスメディアはその明確な答えを用意できていないようだ。




さて、そうしたウィキリークスに象徴される新たなメディアの登場や人々の可視化されたオープンな情報への欲求。それに準じたジャーナリズムの変化については佐々木俊尚の整理が優れているように思う。


彼曰く、現在の情報流通空間は「モジュール化」されていると言い、これまでは「一次情報→マスメディア→人々」と垂直統合された新聞などのマスメディアによって情報が提供されていたが、現在はブログやツイッターなど多種多様なネットメディアが一次情報を人々に届ける状況が生まれた。
さらにその一次情報はネットを経由する場合もあれば、新聞などのマスメディアを経由する場合もある。情報流通は「複雑化≒モジュール化」しているというわけだ。


そういう整理の上に立つと、新聞というメディアの役割について改めて考え直さなければならない時期に来ていると思う。今年起こった数々の情報流出に関する事例を見ればまさしく待ったなしだといえる。


一つの答えはやはり情報の価値判断メディアとして、だろうか。例えば、ツイッターでつぶやかれた情報はその時点では一次情報とは言えず(津田大介はこれを「0・5次情報」と呼んでいる)他のメディアで報道されて初めて一次情報になりえる。ウィキリークスの情報も玉石混合であるが、それに対し新聞が適切な情報を選び報道することで情報に価値を与えられることになる。


個人のリテラシーには限界がある。情報がマスメディアを介さずに公開されているといっても、それを的確に読み解けるとは限らない。例えば、一般人がウィキリークスの外交公電を読んで価値を判断することはほぼ不可能に近いように思える。それを行うには専門的な能力が必要で、それゆえに代わりに価値判断をしてあげるメディアが必要ということは常識的な結論であるように思う。



問題は情報の価値判断は新聞以外のメディアでも行えるのでは?という所だろうか。そこで漠然とした「新聞には信頼感がある」という結論では通用しない時代になってきている。だからこそ、新聞は自らの意味や役割を問いただし、その実力を示さなければならないように思える。

情報に対する姿勢を各メディアが考える、この2010年が一つの転機となりそうな予感がする。


【関連リンク】
佐々木俊尚「ジャーナリズムはモジュール化する」

アイアムアヒーロー

アイアムアヒーロー 1 (ビッグコミックス)

アイアムアヒーロー 1 (ビッグコミックス)


以前からオススメのマンガとして推されていて気になっていた作品。ここ最近の「このマンガがすごい!」「BRUTUS」「ダ・ヴィンチ」で一気に目に触れ、気付いたら本屋で1〜4巻を手に。



最初に花沢健吾に触れたのは「モーニング」の巻末に連載されていた伊坂幸太郎の「モダンタイムス」の挿絵。その作品の世界観ともマッチした独特な画風が印象的だった。
この作品ではその画風が作品の特徴になっている。ゾンビが襲ってくるという描写が見開きの妙や構成とあいまってこれでもかというほどのリアリティを生んでいてかなり怖い。



この作品いくつかの特徴。


まず主人公がにえきらない。現実が壊れるという絶望郷的なマンガでは大抵主人公が奮起する、正義感を持って戦う、解決策を見つけようとするなどの展開が用意されているものなのに、この作品では何より主人公がだらしない。最初のゾンビ化した人々に対する危機感の無さ、銃を持っているのに関わらずその決断力の無さ。読んでいて苛立ちが湧いてくるくらいだが、それゆえにリアリティがある。



そして終わりが見えない。一体この先どう展開していくのか。4巻まででは、ひたすらゾンビから逃げ惑う。立ち向かう方法も見えてこないし、読んでいる方は何の情報も与えられていない。作者自身「先のことを決めないで書く」。全く予測不可能の世界観、だからこそ続きが気になる。早く先の展開を知りたい、読みたいというマンガの原点を感じさせられる作品。だって、このままだとゾンビが増えていって、いずれ逃げ切れなくなっておしまいだぞ?どうするのか花沢健吾。もうこっちが心配になってしまうくらい。



この作品何がすごいのか。それは世界の崩壊のさせ方の追求という気がする。一巻を丸々使って描かれた日常を2巻以降でとことん破壊する。容赦ない絵で人間をゾンビ化させ人を襲わせる。まさに手加減抜き。日常の破壊をここまで追求して描き切っているそのセンスと想像力がこの作品をすごさであり、花沢健吾のすごさという気がした。



5巻はもうすぐ発売。早く手にとりたい気分。