朝日 論壇時評12月号

「論壇に関しては、今年もっとも印象に残った一字は間違いなく『漏』ではなかろうか。」と東浩紀が始める。今月のテーマは情報流出について。


ウィキリークスによる米外交公電流出の話題に関するいくつかの記事が紹介され、次のように述べる。
「流出された公電にはお粗末なものも含まれる。」(佐藤優)
「知られるべきではない世界もある。」(麻生幾)
「情報の安易な流出はむしろ情報統制の強化を招く。」(宮崎哲弥)
このような識者による視点が示され、流出に対して一歩引いた視点で見ていかなければいけないと感じさせられる。


そして、情報に関して公開すべきものと公開すべきではないもの。その線引きの難しさが指摘されている。技術的に公開非公開の境界が守られてきた時代とは異なり、現代ではその制約が取り払われている。これまでの常識では捉えることのできない事態が待ったなしに迫まっており、現時点で新聞を中心としたマスメディアはその明確な答えを用意できていないようだ。




さて、そうしたウィキリークスに象徴される新たなメディアの登場や人々の可視化されたオープンな情報への欲求。それに準じたジャーナリズムの変化については佐々木俊尚の整理が優れているように思う。


彼曰く、現在の情報流通空間は「モジュール化」されていると言い、これまでは「一次情報→マスメディア→人々」と垂直統合された新聞などのマスメディアによって情報が提供されていたが、現在はブログやツイッターなど多種多様なネットメディアが一次情報を人々に届ける状況が生まれた。
さらにその一次情報はネットを経由する場合もあれば、新聞などのマスメディアを経由する場合もある。情報流通は「複雑化≒モジュール化」しているというわけだ。


そういう整理の上に立つと、新聞というメディアの役割について改めて考え直さなければならない時期に来ていると思う。今年起こった数々の情報流出に関する事例を見ればまさしく待ったなしだといえる。


一つの答えはやはり情報の価値判断メディアとして、だろうか。例えば、ツイッターでつぶやかれた情報はその時点では一次情報とは言えず(津田大介はこれを「0・5次情報」と呼んでいる)他のメディアで報道されて初めて一次情報になりえる。ウィキリークスの情報も玉石混合であるが、それに対し新聞が適切な情報を選び報道することで情報に価値を与えられることになる。


個人のリテラシーには限界がある。情報がマスメディアを介さずに公開されているといっても、それを的確に読み解けるとは限らない。例えば、一般人がウィキリークスの外交公電を読んで価値を判断することはほぼ不可能に近いように思える。それを行うには専門的な能力が必要で、それゆえに代わりに価値判断をしてあげるメディアが必要ということは常識的な結論であるように思う。



問題は情報の価値判断は新聞以外のメディアでも行えるのでは?という所だろうか。そこで漠然とした「新聞には信頼感がある」という結論では通用しない時代になってきている。だからこそ、新聞は自らの意味や役割を問いただし、その実力を示さなければならないように思える。

情報に対する姿勢を各メディアが考える、この2010年が一つの転機となりそうな予感がする。


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佐々木俊尚「ジャーナリズムはモジュール化する」