ソラニン

ソラニン スタンダード・エディション [DVD]

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だいぶ今更だけど、映画「ソラニン」を見た。


聞いていた悪評判よりは悪くなかったように思うけど、原作に忠実な分だけ「漫画→映画」の書き換えを行った時に発生するズレのようなものを感じて仕方なかった。漫画的な表現は漫画の中でこそ成立し、それを実写化した時その表現は機能を失う…というような問題を解決できていなかった印象。もちろんこれは「ソラニン」に限った話ではないけれど。


漫画で表現される浅野いにおらしさが脱臭されて、結果単なる「青春映画」として市場に回収されてしまった。原作ファンが憤るのも無理はないという感じ。「ソラニン」は単なる「青春物語」ではないのだから。



さて、久しぶりに(映画、漫画の区別は抜きにして)「ソラニン」という物語に触れてみたわけだけど。就活生となった今の自分では1年前に初めて触れた時とその感触はだいぶ違っていた。


その感触の差はひとまず置き。「ソラニン」では音楽という要素を通じて、どこを拠所とし、どんな物語を信じるのかに対する不安が蔓延する現代への回答を示しているように思う。



社会に対して現実感を持っていなかった種田は「音楽で世界を変えてやる」とカウンターカルチャー的な意味を持つものとしてロックという物語を志向していた。そんな種田はそのロックの世界へと足を踏み入れるきっかけとなった冴木が社会に迎合したビジネスマンとなっていたことに失望する。その冴木はロック的な意味を脱臭させた大衆バンドのリアルを語り種田の依拠する物語を揺さぶる。


冴木に自分の信じる物語を揺るがされた種田は苦悩するけれども、そのうちに本当はそんな物語なんて最初から志向していなかったことに気付く。

芽衣子さん、俺は音楽で世界を変えようと本気で思ってた。
夢のためならどんな困難でも立ち向かうべきなんだと思ってた。
……でもこの頃は、俺はミュージシャンになりたいんじゃなくて、バンドがやりたかっただけなんじゃん?…ってさ
みんながいて、芽衣子がいて、きっとホントはそれだけでいいんだ。」

種田が本当に求めていたのはロック的な物語ではなく、そのロックを介した仲間との繋がりだったのだと。

追うようにして、ビリーと加藤もそのことに気付く。そして芽衣子もその種田のバンドとしてみんなと繋がるという物語を自分の物語へと転換させた上で、その証明としてライブを行いそのことを確信する。


恋人を失い社会にもコミットできない自分を救うものとは、そんな自分を肯定するための拠所としてカウンターカルチャー的に機能していたロック的なる物語ではなく、そこから意味が取り除かれ脱臭されたロックを介した仲間との繋がりだったのだと。そうしてようやく日常を祝福できるようになった所で物語は幕を閉じる。



以前読んだ時はなんとなくこれで納得した。でも、超氷河期と言われるさなか就活生として社会にコミットしようとしている今の自分ではリアリティを持てなくなっていた。


たとえ今生きる日常を仲間との繋がりで祝福できたとしても、その時はいいとしてその先はあるのだろうか。社会にコミットしない代わりに手に入れた物語は、現実逃避以上の価値や意味があるのだろうか。果たしてそんな物語でこの厳しい世の中を生き抜くことができるのだろうか。この部分に対して、疑問を感じた。そしてこの物語はその答えを提示できていないように思う。もちろん、そんな答えなんてなくてもいいのかもしれないけれど。自身の実感として、以前のように共感することはできなくなっていた。


社会が厳しさを増し混沌としていくにつれ、この物語の強度は弱くなっていく。そして、自分が以前と違った感触を抱いたのは、社会に出る手前の身として、その厳しさが蔓延する空気をわずかながらも吸ってしまっているからなのかもしれないと思った。