「動員ゲーム」としての就活にどう向き合うのか

昨今の就職活動ではなりふり構わない就活生の姿がよく散見されます。
例えば、内定をもらうために誇張した表現を使う、またウソをつくという(あくまでなりふり構わない一例として)という行動をとる。必ずしも全てが全てそうだというわけではもちろんありませんが、超就職氷河期を背景にして、少なからずそうした行動にリアリティを持ち始める学生がいるのは事実ではないでしょうか。


こうした状況を聞くと、上の年代の人ほど違和感や抵抗感を示す人が表れてくるのではないかと思います。そして自分自身、年齢こそ下の年代に属するのですが、そうした状況に早くから違和感を持っている一人です。(なぜ自分がこの年代なのにそうしたことを思うのかは下記へ)


しかしながら、一見(上の年代に属する人ほど)批判しがちなその就活生の態度ですが、現代の人々や社会の持つ想像力を考えた時、こうした状況は至極当然のことではないかと考えます。

社会に流通する物語を考えた時、その変遷はその時の社会と極めて強い相関関係を持ちます。それを前提にゼロ年代を考えてみた時それは評論家の宇野常寛さんが言うように「バトルロワイアル」とも言うべき状況が現代には横たわっています。90年代では、「エヴァンゲリオン」の碇シンジに代表されるように現状に対し「引きこもる」というような想像力がマジョリティでした。しかし、このキツイ現代ではそれでは生き残れない。「DEATH NOTE」や「野ブタ。をプロデュース」「LIAR GAME」(特に最後の作品は「ウソ」と「本音」がテーマの一つであり、より今の状況を想起しやすいと思います)に見るように、この社会を生き残るべく決断し、戦う想像力が散見されます。


そして、現代の就活の状況はこのような想像力と極めて強い相関関係を持つように思うのです。つまり、内定を勝ち取るために就活というバトルロワイヤルに投げ出された就活生は、以前のように引きこもって(90年代)はいられず生き残るために決断して(ゼロ年代)なりふり構わず戦わなければならないわけです。まさにこうしたことは「動員ゲーム」としての就活とでも言える状況です。
そしてその中では、現代の物語(「DEATH NOTE」などの決断主義的物語)に見るように就活生は(あくまで一例として)ウソをついてでも動員ゲームを生き抜くことにリアリティを感じているのではないでしょうか。そしてこれはゼロ年代に出現した新しい想像力であり、それゆえに上の年代の人々はこうした状況に違和感や抵抗を感じてしまう。そのように自分は考えます。



さて、ここで自分の目の前に横たわる問題として。自分はこうした状況にゼロ年代を中心に生きていながら抵抗感を抱いてしまっています。そしてそれは、幼少時代に父親の影響で触れた「巨人の星」「あしたのジョー「キャプテン」などが強い印象として自分の中にあるからだと自己分析します。
そう、自分はゼロ年代に生きていながら、いわば70年代のスポ根的想像力の方にリアリティを感じてしまっているわけです。「拳で語り合え!(あるいはボールとバットで)」のような想像力が、現在の「なりふり構わず」の状況に違和感を感じさせているのではと思います。


では、そんな70年代的な自分もゼロ年代的な就活生もどのようにこの動員ゲームとしての就活に向き合ったらいいのでしょうか。


極めて私的ですが、先日見た「LIAR GAME The Final Stage」にその答えが隠されているような気がしました。(ちなみに70年代作品に影響を受けているとしましたが、自分自身ゼロ年代の作品も大好きです!)
LIAR GAME」はウソと本音をテーマの一つとしながら、バトルロワイヤルの状況を生き残る作品であり、映画版ではそのテーマに一つの結論を打ち出しています。物語はバカ正直な性格を持つ神崎直と天才詐欺師の秋山深一が最後のライアーゲームに挑み、その途中ゲーム上に現れた敵「X(エックス)」に追い込まれつつも勝利するというもの。その過程で、その正直な性格が災いしゲーム上で不利な状況を生み出してしまいがちな神埼直が、その天才的なウソを放ちゲームを優位に進める秋山と協力しつつ、その正直者ゆえの特性を生かして勝利。秋山は「このゲーム、おれ一人では絶対に勝てなかった。だがおれには信頼できる仲間がいた。」と二人での勝利を強調します。


そして、映画の終わりに秋山と神崎の二人は「お前のバカ正直はなおるわけないだろう」とその素直さを認める秋山に対して神埼も「いいんじゃないでしょうか。人を幸せにする優しいウソならば」と互いに互いの良さを認め合います。


そう、この映画ではウソと本音に対して、決してどちらが良い悪いと振り切れるものではなく、ともに肯定されるべきものであるという回答が示されているのです。そして、ある種そうしたウソと本音のテーマからも直接的にバトルロワイヤル的現代の就活を描いてるといえるライアーゲームにおいてその回答が提示されたことは極めて示唆的です。70年代的な態度もゼロ年代的な態度も必ずしも良い悪いではない。月並みな言葉ですが、どちらの態度もともに肯定されるべきであり、ゆえにそれぞれがそれぞれの就活を歩めばいいんだよと。そんなことを感じさせられた気がします。



バトルロワイアル的な動員ゲームとしての就活に投げ出された自分たちは生き残るために、なりふり構わずウソも本音も入り乱れた態度をとるかもしれない。しかしながら、それは必ずしも良い悪いで捉えられるものではありません。ウソと本音の話で言うならば、本音だけというのは逆説的に疑わしいものですし、当然ウソばかりでは良い態度とはいえない。どちらも肯定しその両極端に振り切れない態度こそが必要なのではないかと、そう自分は考えます。何が正しいのか見えづらい世の中ですが、その都度それぞれの事象に対応していかなければならない。そんな時代のようです。