少し寂しいタイガーマスク運動

今世間で話題となっているタイガーマスク運動。前橋で一人の人が行ったその行動がいつしか全国へ広まり、一つのムーブメントとなりました。この運動からはいくつかのことが読みとれると思います。


まず、「最初の伊達直人」はなぜこのような児童施設に寄付をするというようなことを行ったのでしょうか。現在、日本の寄付や募金では多くはその使途が可視化されておらず、一体自分の募金したお金はどこでどのように使われるのだろう、というような観念が想起されがちです。この背景の元では、募金に対して直接的に「ある対象に自分が貢献した」という感情を得ることができません。
それゆえに、あの寄付行為だったのではないかと思います。その象徴がランドセルです。もちろんこれは作中のタイガーマスクの行動の単なる模倣である可能性が高いですが。ランドセルは孤児という明確な対象に対してその使用する姿を容易に思い描くことができる実用的なものです。ゆえに自分が対象に貢献したという(寄付において重要だと考えられる)感情を得ることできたと考えられます。まさに、最初の伊達直人の行った行動は現在の日本の寄付及び募金文化に対するアンチテーゼとして受け取られるべきものなのではないでしょうか。使途が明確ではない間接的な寄付からより直接的な寄付による貢献へ。そうした日本的寄付及び募金に対するメッセージが内包されていたように感じられると。そのように自分は考えました。



しかしながら、この運動は後半になると全く異なった展開を見せます。メディアによって好意的に受け取られたこのニュースは単なる寄付運動として広まったのでした。象徴しているのは寄付されたモノの変化です。前半では一様にランドセルが寄付されるモノに選ばれていたのが、後半では野菜や時に現金などが寄付されるモノに選ばれる変化を見せています。「後半の伊達直人たち」は寄付するモノは何でも良く、運動に参加すること自体に意義を感じているのです。


社会学者の鈴木謙介さんはこの運動を、メディアが一方的に流した情報をきっかけに人々が動いたものか、初発がメディアの情報だったとしても、それをネタにしたネットなどの双方向的なコミュニケーションによって人々が動くのかという二つの可能性のうち、前者の傾向が強い、古典的なメディア動員であると読んでいるようです。
(詳しくは今週どこかの週刊紙に記事が載るとか)


身元を明かさない仮面を被った一方的なメディア動員による寄付運動は一過性の可能性が非常に高いといえそうです。仮面を被っているがゆえに責任を負わない単なる押し付けの善意は、「温かい」と評されるのとは裏腹に「無機質」なものでもあります。多くの施設で「必要でないものは処分する可能性があり、何が必要か事前に相談してほしい。感謝の気持ちを伝えたいので身元を明かしてほしい」という声が出てきたのは当然の反応です。


海老蔵後に出てきた明るく温かい話題。その好意的なニュースに感化された人々の単なるメディア動員による運動はその良いことをしたという自意識に包まれ、本質的な寄付活動の意義に気付けずにいるようです。そして、そこには前半に見えた日本的寄付(募金)文化へのアンチテーゼという意味も失われています。


果たしてこの運動後に何が残るのか(ランドセルは残りますけど)。本当の意味での寄付文化は育ったのだろうか。温かさと同時に一抹の違和感と寂しさも感じた、そんな今回のタイガーマスク運動でした。



補足。ただこんなに寄付行為を行う人が隠れていた、同時にそれができる富裕層が結構いたということは驚きであり、もちろん良い行為には違いないと思います。実際、施設の方々は本当に喜んでいるようですし。海老蔵よりはこういうニュースの方が嬉しいものです。