Mー1ひひょう

2010年M−1グランプリが終わった。優勝は笑い飯。9年連続で決勝に出続け最後に報われた形。いいネタだったし楽しかった。素直におめでとう!笑い飯
さて、今年も盛り上がりを見せたM−1。改めて録画した映像を見返してみるといくつか気になる点が出てきた。



ワイプの登場


今年のM−1からワイプが登場した。画面左下に審査員2人の様子がランダムに映し出される。審査員が画面に登場することで、「このネタは評価されている」という意味付けが与えられ、M−1という漫才コンテストとしての性質が強化されているように感じた。これが10年目の結論だろうか。M−1というコンテンツは「漫才の評価」という方向性へと強化されたようだ。なんだか見ているこちら側にプレッシャーが与えられているような気がした。「ここで笑っていいいのか?」審査員の神妙な表情がワイプで抜かれ、こちらもネタを評価、判断しているように気にさせられる。なんだかワイプが邪魔で仕方なかった。



ジャルジャルのメタ漫才


今年はいくつかこれまでに見られないようなスタイルの漫才が見られた。中でもジャルジャルのネタが印象的だった。なんと彼らは「これは漫才である」ということをネタの中で演じて見せたのだ。ツッコミとボケという漫才の要素をネタの中で解体して漫才を行う、いわば「漫才の漫才=メタ漫才」をしてみせたわけだ。メタ漫才という複雑化された表現を見事にネタとしてやりきったジャルジャルは面白かったし、自分自身かなり笑った。


しかし、ここで問題が生じた。そう「これは漫才なのか?」ということだ。
審査員の松本は採点の際、そのことに言及。中田カウスの点数は79点だった。
(もちろん彼らの意図は知りようがないが)おそらく審査員一同のポイントは「これは漫才か?」という所だったはず。そして、彼らは「これは漫才ではない」と判断したわけだ。


漫才を漫才にするメタ漫才は一度、漫才をネタ内で解体してしまっているため、その時点で漫才の否定が行われてしまったように思える。つまり、漫才の解体を行うことで「ツッコミとしてのキャラ」と「ボケとしてのキャラ」という設定付けがなされてしまったのだ。キャラを設定し、それを演じることで笑いをとる。すなわちそれはコントである。中田カウスの点数が今大会最も低かった要因がここにある。漫才の解体を行ったメタ漫才は、長年漫才に触れてきた彼の目には漫才として映らなかったのだ。



漫才というカテゴリー


このジャルジャルのネタはM−1という漫才コンテストの中では評価されなかった。しかし、ネタの完成度は見事だったし、会場ではかなりウケているように感じた。漫才の解体という斬新な発想を試みネタ化した彼らのセンスには本当に恐れ入るし、M−1でなければおそらく評価された、はず。


さて、ここにM−1という大会の本質的な問題を見た気がした。面白ければいいのではなく、漫才の枠の中でネタを行わなければならないのだ。しかし、今大会旋風を起こしたスリムクラブがそうだったように、その漫才というカテゴリーが揺らぎを見せている。一体どこまでが漫才か。漫才という言葉が象徴しているのは、今より遡った昔、センターマイクを挟んだ二人がしゃべくりその掛け合いで笑いとるというスタイルだろう。そのステレオタイプ的に刻まれた漫才像が(今大会で言えば、銀シャリやナイツがその漫才を体現していたといえる)審査員の頭を駆け巡っていたはず。

「これを漫才と言っていいのか。」ジャルジャル採点時の松本の発言に加え、島田紳助もまたそのことに言及していた。その線引きがどこにあるのか、漫才というカテゴリーをどう設定するのか。それを明確にしなければ漫才コンテストとしてのM−1は成り立たない。


そして、それを意図してかせずか10年間続いたM−1が終わった。ならば、次にM−1の後継として始まるコンテスト(「発展的解消」という話だけど、本当に始まるのかなぁ?)はそのことに自覚的な番組であってほしいと個人的に願う。そうでなければまた同じ問題系にぶつかってしまう。
最終的にスリムクラブに票を入れた紳助ならば、きっとそれができるはずだ。