「有害メディア論的」スマートフォンの是非について

最近巷ではスマートフォンの波が押し寄せているようですね。日本独自の進化を遂げたとされるガラケーを押しのけ市場を占有する勢いだということです。
さて、ここで個人的にいくつかの疑問が。そのうちの一つが本当にみんなスマートフォンを使うようになるの?ガラケーは押しのけられてしまうの?ということです。今回はそのことについて考えてみます。


さて、話を始める前にお断り。
自身ケータイに関する知識がほとんど皆無です。というのも、今使っている携帯が3年目、機種変は過去に一度だけ。最新機能だとかなんとかにはからっきし疎いのです。ケータイを手放すことができないよくいるケータイ中毒ではあるんですけどね。なのでケータイの機能うんぬん自体の議論についてはアウト。そこだけ念頭に置いて。



スマートフォンが日本に押し寄せるようになって「ガラケー」という新しい概念が登場しました。この言葉、概念が登場することによって「ガラケー=日本のケータイ」VS「スマートフォン=海外のケータイ」という対立構造ができあがったようです。日本のケータイがよりすごい機能を持った海外のケータイに追いやられると、そんな風潮が蔓延しているように感じます。


では、海外のケータイの方がすごい機能を持っているんだからそっちを選択すればいいんじゃないの?と感じるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。そこで、「ガラパゴス」という言葉の意味をひも解いて見る必要があります。それは「独自進化」ニアリーイコール「日本に適した進化」という言い方が適当ではないでしょうか。例えば、絵文字の豊富さ。これは、対面コミュニケーションにおける表情や感情などの微妙な感覚をメールという文字コミュニケーションにおいて補完する意味合いを持っていると言えます。まさに微妙な距離感やニュアンスを大切にする「日本人的」な対人感覚の機能における表出が絵文字だとといえるのではないでしょうか。それゆえに絵文字に関しては「ガラケー」は素晴らしい進化を遂げているといえます。それに対して、スマートフォンではそこまでの配慮があるとは現状では言えないようです。(もちろん今後どうなるかわかりませんし、現状でもある程度の互換性はあるようですが)

このように「ガラケー」はまさにガラパゴスたる所以、日本的な側面を有しており、「ガラケー」だからこその日本人に適した強みがある。このような解釈の上で「機能が優れている」という面だけにおいてスマートフォンは市場を占有してしまうのでしょうか?メディアのあり方や意味づけが消費者の反応などの要因よって左右されるという「社会構成主義」の立場に立った時、その面だけで決定されるのはあまりにも寂しいし、今後市場のゆくえがどうなるかはまだわからないとあえて言いたいと思います。



さて、ここで気をつけなければならないのは、こうした議論がニューメディアが出てきた際に必ずといっていいほど表れる流言、「有害メディア論」に絡みとられないようにしなければならないということです。
例えば、テレビが登場した際には大宅壮一の「一億総白痴化」に象徴されるような批判が表れましたし、「ゲームが脳を汚染する」「若者がケータイによって退化した」などもその一つです。これらは決して科学的な根拠があるわけではなく、そのメディアが社会に浸透してしまえば消え去ってしまう言説でしょう。ニューメディアが登場する際はそれが身体化する際の抵抗としてそういった流言が表れるわけです。
というわけで、今回の議論も「スマートフォンが押し寄せることによって日本人的なコミュニケーションが失われてしまう」というような有害メディア論にならないようにしなければならないということですね。そのためには一つ一つ機能などが人々にどう影響するか、人々がどのように感じているのかというようなことを検証しなければなりません。


ところが…。冒頭で触れたように自身、機能等に関する知識は一切ありません。その見識も若い同世代の人々のはるか下と言っていいでしょう。ゆえに検証どうのこうのということはできません…。こう書くとまるで「このエントリーは『有害メディア論』です」と言っているに等しい気がしますが…。現状では否定できませんね。
というわけで、これは「有害メディア論」でした。というさみしい締めになります。


ただ、一つ言いたいのは。どうも最近「スマートフォンがいずれ市場を占有するらしい」という流言(あえてそう呼んでおきます)があまりに強く蔓延しているように感じるのです。それゆえに一応、そのカウンターとしてこういう考え方もあるということを提示しておこうと。そのように考えたわけです。
まあその末路が「これは有害メディア論でした」というオチなのですが…。まあ、それも一意見。とりあえずよしとしましょう。



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ダメ情報の見分けかた

ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために (生活人新書)

ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために (生活人新書)


荻上チキが(共著ですが)久々に本を出していたので購入。パートナー(?)の飯田泰之社会学者の鈴木謙介の3人で「リテラシー」について論じています。
それぞれの論が独立している形式なので、それぞれについてコメントを。


荻上チキ「『騙されない』から『騙させないぞ』へ」
ネット時代の流言リテラシーについて、いくつかの具体的なケースを紹介しながらその流言にどう向き合うかを述べています。ポイントだなと感じた部分が2つ。
一つは「自分はリテラシーが高い」と認識して(思いこんで)しまっているがゆえに自らが流言の発信者になってしまうということ。例えば、リテラシー高く政治により強い感心を持っているからこそ、情報に飛びついてしまい「もっと広めなければ」という意識から流言を拡散してしまうと。自分が情報に通じているという認識ゆえの落とし穴。怖いですね。
2つ目が個人のリテラシーには限界があるということ。どんなに情報への感度が強く確からしい情報に辿りついても、専門知がなければ情報の確かさを検証することができないという限界。ついついやってしまいがちだと思うのですが、情報が見抜けなかったことを必ずしも個人の能力、リテラシーの欠如に還元してはいけないわけですね。そういえば以前にニコ生で「ウィキリークスのリーク情報を判断するのは?」という質問でほとんどの人がマスメディアやネットではなく、個人と回答していて拍手喝采、なんてことがあった気がしますが。ちょっと理想論に近そうですね。


飯田泰之「情報を捨てる技術」
次は飯田さん。専門の経済学の知見を生かしてリテラシーについて述べています。「外部性」「ナッシュ均衡」という経済学の概念でリテラシー獲得のコストの高さ、インセンティブの無さを指摘し、それゆえにコストの低い「誰でもできる」リテラシーをここで教えてくれています。
話はリテラシーからずれますが。ナッシュ均衡の概念によるマスメディアの画一的な報道の説明がすごくはまっていて良いなと思った。需要側(視聴者)にリテラシーが無い、それゆえに供給側が他と代わり映えのないような報道をしても安定した視聴率がとれる。だから、あえて自分たちだけ違った報道をする必要がないので動けないというナッシュ均衡にはまり、画一的な報道になっていると。今の海老蔵ラュシュなんかもそれっぽい。海老蔵やっておけば視聴率とれるから流しておくと。私たちもなんだかんだ「もういいよ」と言いながらテレビつけてますからね。ここでみんなが「海老蔵もうやだ!」とか言ってニュース始まったとたんにプチってチャンネル切るようなことがあれば、テレビ側もナッシュ均衡から脱出できるかも。


鈴木謙介メディアリテラシーの政治的意味」
これがなかなか…。リテラシーの話と思いきや政治思想のお話。もちろん関連付けられてはいるけど。とりあえず、メディアリテラシーの教育実践が政治的な影響で変化していると。イギリス、カナダでこれまで情報を批判的に読み解くというものから映像作品を作るという実践的なスキルへとシフトが起きたそうで。ようやく、なんで「メディアリテラシー論」の授業で映像制作をするのかなというなぞが解けました。
さて「偏った」リテラシーという考え方が新鮮でした。一見偏った意見に流されず中立を保つことこそがリテラシーだと考えがちですが、個人が自分の興味に合わせて情報を選択して取得するこのネット社会ではそれは難しい。だから、あえて自分が偏っているということを自覚して、他の偏った立場にも目を向ける。そういう姿勢が求められているのだと。下手に中立を維持し続けるよりもこちらの方が楽そうな気はします。



さて、一通り読んで気をつけなければならないと思うのが、こういう本を読んで「リテラシーがついた」などと下手に認識しないことです。ミイラとりがミイラになるではありませんが、前述したように自分がリテラシーあると思い込んで、それゆえにデマや流言にコミットしてしまっては仕方ありません。あくまで一つ一つの情報を丁寧に扱うことですね。そして、日常生活でそれをし過ぎると疲れてしまうのである程度ゆるく、気張らずに。どこで、どの情報でそのリテラシーを強く持つ姿勢を保つのかということを判断できることもまた一つのリテラシーなのかもしれませんね。

メディア論の立場から考える「東京都青少年健全育成条例改正案」について

2月に提出され6月に否決された「東京都青少年健全育成条例改正案」が11月に改めて提出されたのを受け、漫画家を中心に反対の運動が起こっています。



私自身、個人的な意見として、この条例案には反対です。

それに関して、先日ツイッターでいくつかつぶやいたのですが、改めてそれをまとめてみようと思います。



まず、多くの記事やネットで主張されているように

・表現の規制を都にゆだねてしまうのは危険。

・これが通ると派生的に規制の対象が拡大してしまう恐れがある。

というような視点から反対です。都側は反論しているようですが、条例にその反論の内容が反映される様子はなく、条例改正されてしまえば、拡大解釈が可能といった模様。




さて、そのような主張を支持しつつも、自身の専攻であるメディア論の立場から少しばかりコメントを。



都の条例を見てみると、マンガが青少年の性意識に悪影響を与えるという見方。つまり、「メディアは一方的に人々へ影響を与えるもの」として捉えられていることがわかります。しかしながら、この「メディア→人々」の構図は文化研究の論者を中心にもう古いものだと考えられています。スチュアート・ホールが提唱したような「encoding/decoding」の図式が有効となり、受け手が積極的にメディアを読み解くという「能動的受け手」の概念が登場。つまり、「メディア←人々」の解釈が可能であり、受け手側は決してメディアから一方的に影響を受けない、それを読み解くリテラシーを持っているのです。



そうすると、おそらく「子供がそんなリテラシーを持っているのか?」というような意見が出てくると考えられますが、私個人の意見では「持っていない」それでいいと思います。なぜなら、逆にそういうマンガがある環境からリテラシーは磨かれると考えるからです。



このことはネットの裏サイトや有害サイトの議論とも似たような様相を呈していると考えられます。つまり、フィルタリングをかけて子供を囲い込みそういうサイトから守ろうという認識。しかしながら、それは荻上チキが『ネットいじめ』で触れているように決して根本的な解決になっていません。それを読み解くリテラシーこそが必要なのです。(荻上チキはそもそもフィルタリング自体うまく機能しているとはいえないと述べていますが)



今回の規制は、メディアに対する「これは良いのか悪いのか」というような判断自体を奪うことで、そういったリテラシーを育む機会自体を奪っているのではないでしょうか。そしてまた、本当に必要なことは規制ではなくリテラシーの研鑽であるという意味において都の提案は「逃げの改正案」と言えるのではないかと思います。文化表現の自由が保障された社会こそがその研鑽のために必要な環境であり、決して規制のかけられた「温室」がその育成にふさわしいとは思いません。




私は他にも様々な視点があることを知っています。法律からの視点、母親からの視点、統計や社会の視点…。この問題は多種多様な角度から論じることが可能であり、それゆえに都と反対者の議論は平行線をたどっているともいえます。ですから、私の見方もほんの一面的なものでしかないと理解しています。それでも…何かおかしいこの改正案。釈然としない思いが底から溢れ…自分の立場から少しでも意見を、と思いコメントしました。



どうかこの問題が良き方向へと進みますように。

ブログを始める

ブログを始めるにあたって、その理由をつらつらと。

一言で言うと書きたいことの解消です。スポーツにおいては、別のブログで解消できていたのですが、その他、特に「学生」として感じることを表現=解消する「場」は個人用にはなかったので。mixiでは、あまりにも繋がりが強調され過ぎた「場」であり、それを書くのはふさわしくないということがあり。

なので某ゼミブログにおいて、それをしていたのですが、持ちまわり制。出番は2週間に一回で書く日にち、タイミングも限られている。うまく解消することができず、さらにゼミブログでそれをするのは、どうなのか…。という思いも多少なりともあり。

ということで、このブログを開設。

これまで、持っていた「場」では書けなかったようなことを書いていきたいと思います。まあ書くことがプレッシャーにならないように、ゆらゆらと気まぐれにやっていきます。では。