メディア論の立場から考える「東京都青少年健全育成条例改正案」について

2月に提出され6月に否決された「東京都青少年健全育成条例改正案」が11月に改めて提出されたのを受け、漫画家を中心に反対の運動が起こっています。



私自身、個人的な意見として、この条例案には反対です。

それに関して、先日ツイッターでいくつかつぶやいたのですが、改めてそれをまとめてみようと思います。



まず、多くの記事やネットで主張されているように

・表現の規制を都にゆだねてしまうのは危険。

・これが通ると派生的に規制の対象が拡大してしまう恐れがある。

というような視点から反対です。都側は反論しているようですが、条例にその反論の内容が反映される様子はなく、条例改正されてしまえば、拡大解釈が可能といった模様。




さて、そのような主張を支持しつつも、自身の専攻であるメディア論の立場から少しばかりコメントを。



都の条例を見てみると、マンガが青少年の性意識に悪影響を与えるという見方。つまり、「メディアは一方的に人々へ影響を与えるもの」として捉えられていることがわかります。しかしながら、この「メディア→人々」の構図は文化研究の論者を中心にもう古いものだと考えられています。スチュアート・ホールが提唱したような「encoding/decoding」の図式が有効となり、受け手が積極的にメディアを読み解くという「能動的受け手」の概念が登場。つまり、「メディア←人々」の解釈が可能であり、受け手側は決してメディアから一方的に影響を受けない、それを読み解くリテラシーを持っているのです。



そうすると、おそらく「子供がそんなリテラシーを持っているのか?」というような意見が出てくると考えられますが、私個人の意見では「持っていない」それでいいと思います。なぜなら、逆にそういうマンガがある環境からリテラシーは磨かれると考えるからです。



このことはネットの裏サイトや有害サイトの議論とも似たような様相を呈していると考えられます。つまり、フィルタリングをかけて子供を囲い込みそういうサイトから守ろうという認識。しかしながら、それは荻上チキが『ネットいじめ』で触れているように決して根本的な解決になっていません。それを読み解くリテラシーこそが必要なのです。(荻上チキはそもそもフィルタリング自体うまく機能しているとはいえないと述べていますが)



今回の規制は、メディアに対する「これは良いのか悪いのか」というような判断自体を奪うことで、そういったリテラシーを育む機会自体を奪っているのではないでしょうか。そしてまた、本当に必要なことは規制ではなくリテラシーの研鑽であるという意味において都の提案は「逃げの改正案」と言えるのではないかと思います。文化表現の自由が保障された社会こそがその研鑽のために必要な環境であり、決して規制のかけられた「温室」がその育成にふさわしいとは思いません。




私は他にも様々な視点があることを知っています。法律からの視点、母親からの視点、統計や社会の視点…。この問題は多種多様な角度から論じることが可能であり、それゆえに都と反対者の議論は平行線をたどっているともいえます。ですから、私の見方もほんの一面的なものでしかないと理解しています。それでも…何かおかしいこの改正案。釈然としない思いが底から溢れ…自分の立場から少しでも意見を、と思いコメントしました。



どうかこの問題が良き方向へと進みますように。