ゼロ年代の論点



批評ファンなら、ふと目を止めてしまう一冊。自分も御多聞に漏れず購入。


紹介されている本の中でちゃんと読んだことがあったのは3分の1くらいだったか。あまりゼロ年代の評論に必ずしも習熟してない身として触れてみたけど、どんな議論が繰り広げられてきたのかは掴むことができた。


評論を読んでいるとこの議論とこの議論はどのように関係づけられ、接続されるのだろうかと疑問に思う時がある。自分なりの定義でその可能性を考えるものの、何分経験・知識不足が否めない。


その意味で多少なり著者のバイアスがかかった整理だったにしろ、議論と議論の関係性・接続点を提示してくれたのは意義深かったように思います。


現状では、主にそれぞれの論者の言動・ツイートを追ったり、言論誌などの記述でしか、それらの著書がとのように位置づけられているか関係性を持っているのかを把握することはできないように感じます。それゆえ、改めてその位置関係を著者の言うように「マッピング」しているのは意味があり、自分のような批評の入り口に立ってる立場の人たちには面白い。


でも、なんだろう。改めて批評という体系・空間みたいなものが示されることで、そこにコミットする人、しない人の境目がはっきりしてしまったような。批評が好きな人は消費するし、そうじゃない人は見向きもしないものであることを印象付けてしまったような気もします。




さて、本の中に時折垣間見える著者の主観に基づく評価で印象的だったのが一つ。

荻上チキについて。

荻上は、実証と記述するうえでの適度なバランス感覚を持っている。「祭り」や「炎上」などという題材を取り上げる時にも彼は冷静だった。なにかの専門家というわけではない一般読者にも通じやすい文章の書ける論客である。


ある言説を偏っていると批判する言説が偏っているという構造がたびたび発生する言論空間において、荻上チキの文章には圧倒的ともいえるバランス感覚がある。彼のインタビューや発言からもそのことに自覚的であることがわかり、それゆえに彼の文章は「安心」して読める。


バイアスがかかった雑多の情報が溢れる中で、荻上チキのような姿勢や態度は見習わなければなりません。今や誰もがツイッター、ブログを通じて発信できる以上は。そのことをふと感じさせた評価でした。


【参考】
円堂都司昭氏インタビュー

「EARTH/世界の終わり」


EARTH

EARTH


2010年に話題を呼んでいたというグループ。気になったいたので本日購入。思う所があったのでその感想を。

ぼくは、普段から邦楽ロックに対してアンテナを張っているような、いわゆるファンとしてのロック文化に属する人ではありません。なので、そうした文脈からこの作品についてあーだこーだということは言いません(言えません)、シンプルに作品単体に対する感想・雑感です。




楽曲はもちろん、やはり歌詞でしょうか。世界という大きなタームで語られる彼らの世界観は、人と人という枠組みの中で語られる言説に疑問符を投げかけてます。


社会の中に溢れる様々な言説。その中で「何が正しいのか?」と正しさを争う日常だけれども、そこに大きな視点が欠落している。「ちょっと待てよ」と問いかけています。それは、「生物」だったり「花」や「虫」という言葉で表現されているような素朴で自然なもの。


自分自身、今まさにその言説の海の中に身を放り投げている状態なので、その欠落した視点にふと考えさせられます。突っ込みがちなわが身を少し引き戻してくれるような。そんな音楽と歌詞であるように感じました。今の自分が聞いて感じて考えているタームには世界の終わりのような世界観が欠如しているんじゃないか。そんな思いを心の中に留めておくことができそうです。


よく考えたら、当たり前で自然な感性。でもこの社会を生きているとえてして忘れがちなもの。それに気付かせてもらえるような一枚だと思います。



さて、このアルバムに対する評価を探ってみた所、やはりというか少し恐れていたことが…。この詩に対して、「子供じみた発想」だとか「こういう曲を聞いて自分考えてますみたいに思うんだろ」というようなコメントとそれに対する反発のカスケードが起こっていたのです。世界平和というようなリリックを用いて歌うと、えてしてこうした論争が起こりがちであるように思います。特に、ロック文化に成熟している人ほど批判の声が大きいような気がします。


作品に対する態度はそれぞれで結構ですし、自分がそれにコメントしてもそのカスケードの中に回収されてしまうので何とも言えない所なのですが。一つだけ。



人の感想を自意識と絡めて中傷することはやめてほしい。


コメントの中には世界の終わりのような歌詞を聴いて、感想を持った人に対して「中2病」だというような文脈が多く散見されましたが。この作品を聴いて感じたり、考えたりする人たちに対して、そうした言葉を当てはめて嘲り嗤うことは不当です。感じたことを表現することに対して、「自分はこの曲を聴いて考えている」というような自意識として受け止め「病気」と嗤うことには違和感を覚えます。


もちろんこれは「中2病」というネットスラングに対する問題意識でもあるわけですが。そうした感性を嗤ってしまうと、では一体コンテンツに関する態度や表現はどのようにすれば良いのか。という疑問が生まれかねません。


コンテンツに関する批評は結構ですが、それを行う人に対して不当な言葉を使って嘲り嗤うことは良くないように思います。

就活スキームを見直そう


いつもはメタ視点で就活について雑感などを書いているのですが、今日からベタ視点。就活生として感じたことも書いてみようかなと思います。きまぐれです。




今日は会社説明会へ。帰りに人事の方とお話。なんと話しているうちに自分の先輩がその会社から内定をもらっていたことが判明!


驚きつつもその先輩についてお話。その先輩が会社に対して求めていたものと、会社が求めていたものが一致していたと。「相思相愛」人事の方がそう話していたのが印象的でした。


自分とその会社。一対一の関係。
そんな身近な先輩の話をしていてふと思ったのは、マクロとしての就活ではなく、ミクロとしての就活。昨今では大就職氷河期だなんて言われているけど、そんなん極論を言うと関係ない。だって、どうしようもないから。
だから、就活はマクロではなく、ミクロの視点でするべきだ。と以前から思っていたのですが、人事の方とその話をしていてそれを肌で感じました。


その方ともう少しお話をして。やはり最近の就活生はドタキャンをよくするらしいです。それでその方はわざわざ一人ひとりに前日、説明会に予定通り参加するかどうかの確認の電話を入れていたのですが(けっこう大変!)なんか、就活生が(適切な言葉がつかえているか自信がないのですが)無機質な、システマチックな就活をしている。そんな感じがします。よく言われるネット就活。やっぱりそうじゃなくて有機的な感覚を持って行わないと。自分と会社のつながりを無機質ではなく、有機的に感じて就活をする。それを今日感じたのです。(この感覚伝わるかなぁ…)



象徴的だなぁと思ったのが、今日の説明会の質疑応答。「御社の成長戦略は…」とか「グローバル化の中で…」そんな感じの質問が多かった。もちろん、それ自体は良い質問なのかもしれないし、その学生がずっと疑問に思っていたのかもしれない。けど、自分がその会社で働くという想像力を働かせた時、するべき質問は実際に行う仕事関連の質問じゃないのかなぁ。と思った。なんだか(もちろん思い過ごしかもしれないけど)「イイ質問をするために質問する」そんな空気は蔓延していた気もしなくはなかった。目の前の社員さんがなんかあきれたような表情を浮かべていたのは、あながち気のせいではなかったかもしれない。


ぼくも含めて、就活スキーム(考え方の枠組み、概型)を見直すべきなのかもしれません。会社の成長戦略とかも、もちろん大切だけどやっぱりそれはある意味マクロのお話。実際にどう働くのかなどなど、ミクロのお話をしないと。


マクロからミクロへ。
無機質から有機的へ。


就活スキームを移行させるべきなのかもしれません。今日このことに体験的に気付くことができて良かった。いい日でした。

さてESを書かなきゃ。その会社で働く姿を想像しながら、有機的な感覚を持って。

自己分析と就活について一考


就職活動における自己分析ってやつは本当にやっかいなもんですね。


一体どうやったら良いのか、自分ってなんだよ、そもそも自己分析って何?、する必要あるの?…etc。はてはて突き詰めるとプツンといってしまいそうですし。。(←今ぼくはここの状態!)就活生を困惑させるのには十分すぎるテーマのようです。


そんな自己分析と就活について最近考えたことがあるので少し。ここではその困惑を晴らしてみることに試みたいと思います。



そもそも企業は「本当のあなた」を求めているわけではない。ここで言う「本当のあなた」とは、少し堅い話になりますが、社会心理学者ミードの言う所の「主我=I」つまり、「アイデンティティ」としての私です。
どうか「んん…?」と思わずに。要するに、人は生まれた時から社会における「役割」を学習し、社会関係に合わせて自分を変化させるもの。例えば、目上の人と会う時は例え普段ふまじめだとしても丁寧に接しなければならないでしょうし、サークルにいる時は盛り上げ役になるかもしれない。そうした「客我=me」つまり、「キャラ」に対して、それを統一的に把握する主体が「I=アイデンティティ」なわけです。場面場面に合わせて自分は「me=キャラ」を発揮するけれども、それを俯瞰的に見つめコトロールする「I=アイデンティティ」が存在するということです。



そして企業は「アイデンティティ」ではなく、「キャラ」を求めている。もう少し話を進めます。

企業とは社会です。その社会を生きる中では、人は社会関係の中で築かれた自分を表現せざるをえません。例えば、あるプロジェクトを任せられた時にあなたは主体的にふるまう必要があるかもしれませんし、的確なサポート役として振る舞わなければならないかもしれない。企業が社会である以上は当然、社会の中で期待される役割としてのあなた、つまり「me=キャラ」が求められるというわけです。


さて、企業のESの中では自分に関するエピソードが求められることが多々あります。これはこれまで述べてきたことを考えると当然の帰結だと言えます。なぜなら、あなたの「me=キャラ」を示すものこそがエピソードといえるからです。エピソードとは、あなたの社会関係の中で築かれた自分を示す物語のことです。例えば、ある集団の中であなたはどのように振る舞えるのか、あるシチュエーションの下ではどういう態度を取るのか…など。そのように、社会における自分=キャラを効果的に伝えるためにはエピソードという物語を語る/語らせることがよりよい方法だといえます。それゆえに企業はあなたのエピソードという物語を求めているわけです。



ここから少し考えを加速させます。
では、そんな「キャラ」は「本当の自分」ではないのでしょうか。社会の中で築かれたある種の虚像は自分ではなく、「キャラ」としての自分は「アイデンティティ」としての自分との乖離があるのだと。
しかし、現代ではそうした感性は弱体化しているようです。サークルにおける自分、バイトにおける自分、学校での自分…。それらの自分は全てその場面場面ごとの本当の自分なのではないでしょうか?「本当の自分」と言うと少し混乱するかもしれません。たとえ、演じられた自分だったとしても(会社で得意先にへこへこしている自分だとしても)そう振る舞う自分はまぎれもなくあなたそのものと言えはしないでしょうか。


社会が流動化し、(ネットが登場し)以前とは異なり、いくつものコミュニティができている現代ではそのコミュニティ=社会関係ごとにいくつもの「自分=me=キャラ」が存在しているといえます。そのいくつもの「me=キャラ」の集合体こそが「本当の自分」であると現代では感じられている。安定した統一的なコミュニティが消えつつある以上は一定のアイデンティティを保つことは難しく、キャラを本当の自分として立てていくしかない。そのような状況では「主我=アイデンティティ」はもはや存在せず、場面場面に応じて臨機応変にキャラとしての自分を使い分け、その自分の間の矛盾をやりすごす感性こそが求められている。…そんなことが昨今の社会学では論じられているようです。(少し言葉を登場させると、社会が流動化した再帰的近代における自己像はアイデンティティが弱体化し、meに対して「反省」ではなく「再帰」のメカニズムが存在しているということです)



まあそんな現代ではキャラとしての自分と企業が求めるキャラとしてのあなたをマッチングさせることが必要であり、それこそが今の就活であるといえるのかもしれませんね。


以上の少々駆け足だった議論を示したのが以下の図です。(手書き!!)






図が汚いせいで逆にわかりにくいかもしれませんが…。こんな概念図が自己と就活の間には成り立つのではないかなと思います。

もう少し付け加えることがありそうな気がしますが。だいぶ筆が滑りがちなのでこのあたりで止めておきます。


就活ではアイデンティティにまで踏み込む必要はない。必要なのは関係のネットワークの中で築かれたキャラであり、積み重ねてきたエピソードがそれを示してくれる。自分の言っていることがズレている可能性は大いにありますが、こうした整理を背景にして就活をしないと路頭に迷ってしまうような気もします。よりどころは人それぞれですが、ぼくの場合はこれがそれなのです。

ソーシャルネットワーク


ソーシャルネットワーク」見てきました。

フェイスブックの創設者マーク・ザッカーバーグが友人との協力、そして裏切りを経験しながらその立ち上げの様子を捉えた物語。


バーチャル世界のフェイスブックを作り上げたマークのリアル世界での人間関係が描かれていて面白い。表現されていたのはマークの異質さ。人とろくにコミュニケーションとれないんじゃないのかと思わせる早口なしゃべり口調と自分の価値感を押し付ける性格。映画が話を合わせる様子なく彼女と口ゲンカし別れるシーンから始まるんだから象徴的。数少ない友人だった、共同創始者エドゥアルド・サベリンすらも会社に対する行き違いから裏切り、訴訟を起こされてしまうほど。


この映画からはリアル世界でうまく人間関係を築けていなかったマークがバーチャル世界で人間関係を築くシステムを立ち上げるという対置が透けて見えました。「非リア充非モテ)」人間がその反動からバーチャルにその空間を作り上げる…そんな自意識の物語として回収しても良いのかもしれません。その証拠に、マークが神妙な顔をしながら最初のシーンで振られた彼女にフェイスブック上で友達リクエストを送る様子が映画終盤に描かれていました。映画の主要なテーマではないかもしれませんが、リアルでの過ちや関係をバーチャルで回復するというその回路は見落とすべきではありません。



さて、映画を見ていてフェイスブックが広まったのはアメリカの(特に大学における)クラブ文化、社交文化、階層分化が背景にあるのだと感じられました。アメリカでは大学は人脈作りの場として機能している。社会的地位向上のため、将来のため…。クラブに入り、大学のうちにその人脈を作っておくことが求められていて、フェイスブックはそれをバーチャルな空間で体現しているわけです。それゆえに実名登録も必然。ハーバードというブランドに憧れた人々が殺到し、登録者数も爆発的に増えた。


日本では、現実とバーチャルが切り離された感覚(もちろん全く別とはいいませんが)を持っているのに対して、アメリカでは現実とバーチャルは強い相関関係を持っていてリンクしてようです。まさに「社交(=ソーシャル)」としてのフェイスブック。自分の将来や生活に直接的に影響する存在として機能しているのです。日本での「社交」とは概念が異なっているのがわかります。


アメリカでの「ソーシャルネットワーク」とはバーチャルではなく、現実に即したリアルなようです。そしてそれは、日本にはない「社交」の概念が反映されているからだと言えます。日本進出の攻勢を強めるとしたマーク・ザッカーバーグ。果たしてこれから日本にそのアメリカ式「社交」の延長戦上にあるフェイスブックが浸透するのでしょうか。実名をめぐる議論とともに2011年の主要テーマになる気がします。


【関連記事】
Facebookの普及に見る米国の社会階層性と、『米国=実名文化論』の間違い 小山エミ

朝日 論壇時評1月号

今月は新しい情報環境に対する見解について。

文章は「朝まで生テレビ」でのエピソードから。ツイッターをスタジオに持ちこみ、リアルタイムで意見を反映させれば閉鎖された議論を開放させることができるという提案。それに対する冷ややかな反応は、論壇の中でも見受けられると言います。


ネットやグーグルを極端に単純化=「モンスター化」し批判する。東浩紀さんはこうした新しいものに対する理解の無さを嘆き、

「ブログにしろツイッターにしろ、道具でしかない。道具の善し悪しを喧しく論じるまえに、なぜそれらを用いて社会を変えないのか。」と爽快にそうした言論を切っています。




新しいものに対して、古い論理を振りかざして対応する様子については自分自身首をかしげる場面が多々あります。言説のリアリティが変化してきている。
それを肌で感じたのは他でもない冒頭のエピソードの時。朝生を見ていた自分はツイッターを場に導入し議論を開放しようとする東さんに対して、怪訝な対応をする田原さんに思わず「古いっ!」と声をあげていたのでした。


これから本当に意義ある議論を展開するならば、これまで積み上げてきた言説を捨て去り、この新しい情報環境に適応した言葉を残していかなければならないと強く感じます。言説のリアリティが変化してきていることに無自覚な文章は読んでいてもつまらないし、もはやどっぷりと新しい情報環境に浸かっている身としては嫌悪感すら抱きかねない。小市民な大学生の感性でもそれを感じてしまうのですから、早急な対応が必要なのかもしれません。


振り返ってみても。やっぱり、読んで「おおっ!」とか「面白いなぁ」と思うものってそうした変化に対応している文章なんですよね。

少し寂しいタイガーマスク運動

今世間で話題となっているタイガーマスク運動。前橋で一人の人が行ったその行動がいつしか全国へ広まり、一つのムーブメントとなりました。この運動からはいくつかのことが読みとれると思います。


まず、「最初の伊達直人」はなぜこのような児童施設に寄付をするというようなことを行ったのでしょうか。現在、日本の寄付や募金では多くはその使途が可視化されておらず、一体自分の募金したお金はどこでどのように使われるのだろう、というような観念が想起されがちです。この背景の元では、募金に対して直接的に「ある対象に自分が貢献した」という感情を得ることができません。
それゆえに、あの寄付行為だったのではないかと思います。その象徴がランドセルです。もちろんこれは作中のタイガーマスクの行動の単なる模倣である可能性が高いですが。ランドセルは孤児という明確な対象に対してその使用する姿を容易に思い描くことができる実用的なものです。ゆえに自分が対象に貢献したという(寄付において重要だと考えられる)感情を得ることできたと考えられます。まさに、最初の伊達直人の行った行動は現在の日本の寄付及び募金文化に対するアンチテーゼとして受け取られるべきものなのではないでしょうか。使途が明確ではない間接的な寄付からより直接的な寄付による貢献へ。そうした日本的寄付及び募金に対するメッセージが内包されていたように感じられると。そのように自分は考えました。



しかしながら、この運動は後半になると全く異なった展開を見せます。メディアによって好意的に受け取られたこのニュースは単なる寄付運動として広まったのでした。象徴しているのは寄付されたモノの変化です。前半では一様にランドセルが寄付されるモノに選ばれていたのが、後半では野菜や時に現金などが寄付されるモノに選ばれる変化を見せています。「後半の伊達直人たち」は寄付するモノは何でも良く、運動に参加すること自体に意義を感じているのです。


社会学者の鈴木謙介さんはこの運動を、メディアが一方的に流した情報をきっかけに人々が動いたものか、初発がメディアの情報だったとしても、それをネタにしたネットなどの双方向的なコミュニケーションによって人々が動くのかという二つの可能性のうち、前者の傾向が強い、古典的なメディア動員であると読んでいるようです。
(詳しくは今週どこかの週刊紙に記事が載るとか)


身元を明かさない仮面を被った一方的なメディア動員による寄付運動は一過性の可能性が非常に高いといえそうです。仮面を被っているがゆえに責任を負わない単なる押し付けの善意は、「温かい」と評されるのとは裏腹に「無機質」なものでもあります。多くの施設で「必要でないものは処分する可能性があり、何が必要か事前に相談してほしい。感謝の気持ちを伝えたいので身元を明かしてほしい」という声が出てきたのは当然の反応です。


海老蔵後に出てきた明るく温かい話題。その好意的なニュースに感化された人々の単なるメディア動員による運動はその良いことをしたという自意識に包まれ、本質的な寄付活動の意義に気付けずにいるようです。そして、そこには前半に見えた日本的寄付(募金)文化へのアンチテーゼという意味も失われています。


果たしてこの運動後に何が残るのか(ランドセルは残りますけど)。本当の意味での寄付文化は育ったのだろうか。温かさと同時に一抹の違和感と寂しさも感じた、そんな今回のタイガーマスク運動でした。



補足。ただこんなに寄付行為を行う人が隠れていた、同時にそれができる富裕層が結構いたということは驚きであり、もちろん良い行為には違いないと思います。実際、施設の方々は本当に喜んでいるようですし。海老蔵よりはこういうニュースの方が嬉しいものです。