ネットカンニング


京都大学などで入試問題がネットに投稿された事件。「カンニング」一つで過剰報道ではないかという声が蔓延る中、最近ようやく報道が落ち着いてきたころでしょうか。


今回の事件については、報道はもとより、それを取り巻く意見・コメントの声も多く、様々な興味深い指摘がなされていました。


中でもコラムニスト小田嶋隆さんの意見は鋭い。

既存のメディアは、ネットや携帯電話といった新しい舞台装置が見えると、途端に過剰反応を始める。彼らにとってIT機器は、未知なる脅威なのでしょう。ただのカンニングを「ネットカンニング」と呼ぶことで、大きく報道すべき価値がでると考えているかのようです。
朝日新聞2011年3月5日17面)


今回の事件では、これまで見られなかったネットを使ったカンニングという行為に対する驚きと事件そのものの大きさがすり変わってしまっていたように感じられます。


ネットという「未知」のものに対する過剰な反応。それは様々な憶測や流言も発生することに。例えば、あの早さであの分量を、果たして単独で行い得る行為なのかという疑念から、グループの行為ではという憶測が多発。その疑念はある報道において実際に打ち込むスピードを検証していたほど。

その流れから、実際に産経のニュースサイトでは「複数犯」との報道があり拡散。実は今回、ツイッターで自分もこの記事のリンクをツイート。気をつけていたつもりが、流言拡散に一役買ってしまい反省。(その後、産経ニュースサイトの記事は削除されていた)


それほど、未知の、新しいものに対する反応は凄まじい。この事件に対する過剰な報道はそのままネットに対する恐怖や不安と同義であるかのようでした。


さて、今回ネットの知恵袋が使われたことで、現代人の知識のあり方も問われていたようです。

再び、小田嶋さんのコメントを引用します。

以前、私は電話番号を50件くらい覚えていました。今は携帯電話に入ってますから、10件も覚えていません。それでも何も困らない。大学入試の問題がネット掲示板に流出した事件も同じで、ネット上に集まった知識、つまり集合知を使えば、個人の知識が不要になった時代を象徴しています。知識を個人の頭の中に置いておく意味が失われたのです。 (同)


このことは拡張された身体としてネットが採用されたことを意味します。もちろん、脳・記憶の延長として、つまり拡張された身体としてメディアが用いられるということ自体は以前から存在していました。本がその象徴で、自分自身多くの付箋を本に張り、知識の索引として使用しています。しかし、それが知識に辿りつくまでのアクセス速度など利便性の観点から身体化されたメディアとして圧倒的に存在感が増してきたように感じられます。


もちろん、このことは本がその機能を失ったということを意味しません。今回ネットに投稿された回答は多くが「正答からほど遠い」ものであり、逆説的にネットの集合知的な情報の不確かさを示していたようにも思います。拡張された身体として何をどのように使用すべきかは考える必要がありそうです。



さて最後に、「たかが『カンニング』でこんなに騒いで…」というムードについて。
極めて一般論的ですが、これはただの「カンニング」ではなく、「大学入試におけるカンニング」です。これまでのヨコの社会性をタテへと変えていく、社会の根幹に位置する強力なシステムであり、それゆえ、そこにおける不正は許されない。「『カンニング』ごときで…」という言葉には「大学入試における」が欠如していた気がしなくはない。


事件そのものよりも、それを取り巻く報道、言説の方こそが注視されなければならない。よりそのことが感じられた事件でした。